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退 屈 な 人 へ 第22回定期演奏会より 2000.6.18
本当に久しぶりだ,聴衆の一人として客席に座ったのは。愛知県が誇る愛知芸術劇場の大ホール。しかも2階席2列43番のS席だ。すぐ左前にはミキサーが陣取っている。今日は,何年も前から1度は聴きたいと思っていたグレンミラー楽団のコンサートだ。インザムードや,ムーンライトセレナードなど,これまでも度々プログラムに取りあげている。
グレンミラー楽団はアメリカのビッグバンドであるから,アメリカでは広く知られているだろう。日本でも映画「グレンミラー物語」によって広く知られるようになった。
グレンミラー楽団は第二次大戦中,直接戦地に赴き,演奏を通して兵士を慰労して回り,その活動が映画化された。映画のラストシーンでグレンは,飛行機と共にドーバー海峡で消息を絶った。そして,グレンのラジオレギュラー番組の生放送で初めて家族にその悲報を知らせた。その時の「茶色の小瓶」は,見るものの心を深く打つ。私もこの映画を見て以来,グレンミラーの大ファンの仲間入りをした。
グレンミラー楽団が来日するからといって,グレンミラーが来るわけではない。消息を絶って既に50数年が経っているのだから。驚くのは,仲間によって受け継がれた楽団が,グレン亡き後もこうして世界中のファンに愛されていることだ。
会場は白髪の混じった年輩の方が多い。もちろん中高生の姿も目に付く。当然チケットは完売でキャンセル待ちの人が列をなしていた。
華やかな会場で,華々しく開演するものと思って待ちかまえていたところ,緞帳に多少手の込んだ照明による演出はあったものの,テーマ曲であるムーンライトセレナードに乗って,控えめにコンサートは始まった。今時の大音響でもなく,目を見張るパフォーマンスもない。そして,時が緩やかに流れ始めた。
殆ど毎年のように来日し,1500曲もあるレパートリーの中から同じような曲を演奏している。 アップテンポの曲になると,後うちの手拍子が頭打ちに変わる。さらに速くなると手拍子が付いて行けなくなり,いつの間にか消えてしまう。それでも演奏者も聴衆も心から楽しんでいる。
トランペットがエリックのようにハイトーンをガンガン鳴らすわけでも,サックスが須川のような超絶技巧を見せるわけでもない。スタンドプレーも巷の高校生の方がよほど上手だ。しかし,息をのむようなトロンボーンの柔らかいハーモニー,繊細なピアニッシモのソロ。ドラムスのひたむきなソロ。決して派手ではないが何時までも心に残り,優しく包み込んでくれるような時を共有できた。緩やかな会場の空気と控えめでいて,奥の深い,どんな人でも包み込んでくれる。そして確かな音楽性と技術で,静かに我々を虜にする。そんなコンサートだった。
そしてつい先日には同じ芸文の大ホールで私のあこがれ,小澤征爾の歌劇「フィガロの結婚」を見た。ベルディの歌劇「アイーダ」は中学校音楽の共通教材として取りあげられ,LDで何度も見ているが,フィガロは初めてである。しかも,オペラのために作られた芸文大ホールで小澤のフィガロともなれば,興味をそそられるのは当然だ。
生の小澤はボストンとのコンビで1度聴いたことがあるだけで,今回が2度目である。 チケットは発売と同時に半年前から買った(いや教え子に頼んだ)。私にとっては初めてのオペラ,しかも小澤の。当然座席にはこだわった。音響や全体の視角より,オケピットの中や,素顔の小澤がはっきりみられることが優先だ。悩んだ末選んだのがステージ脇の3階のボックス席だ。ここなら横からだが小澤もオケも舞台も見られる。しかも3階の端だから安い,と思った。しばらくしてチケットが確保できた,と連絡があった。安いB席と思っていたらS・スペシャル,値段を聞いて2度驚いた。なんと25,000円だ。一瞬躊躇したが,これを逃したらこの次はいつになることか,と考える間に承諾してしまっていた。
私は迷ったが,珍しくスーツを着込んで万全の正装で望んだ。ちょっとばかりおめかしって所だ。期待で心臓がバクバクした。
15時,定刻に小澤がオケピットに入るとすぐに,耳慣れた序曲が始まった。オケはボストンでも新日フィルでもない。当然斎藤記念オケでもない。最近始めたらしい小澤征爾音楽塾オーケストラ,というものだ。
以前から小澤は若い音楽家を育てるため,色々なアプローチをしている。このオケはそれに賛同した斎藤記念オーケストラの有志を交えた,寄せ集めのオーケストラだ。寄せ集めといってもかなりシビアなオーディションがあったことだろう。当然若い。でもコンマスを初めとして各楽器のトップは斎藤記念オケのメンバーで固められている。しかもオーボエは宮本文昭である。歌い手も,合唱以外は全て世界に名を知られた人ばかりだ。
しかし,その序曲は幾分堅い。私が予想していたモーツアルトではない。しなやかさ,繊細さを期待していたのは私だけではないだろう。
身を乗り出して聴いた序曲はすぐに終わってしまって,第1幕が始まった。幕が上がると,アッと驚く舞台だ。大きな階段を備えたまるで本物の家だ。全4幕からなるオペラであるが,4幕ともまるで違うセッティングで,どれも堅牢で見事なものだった。照明も非常に効果的に使われ,なるほど総合芸術といわれる所以だと思った。
で,驚いたことが3つある。
1.デジタルで日本語訳が表示される
2.場内の非常出口を含め全部の照明が消される
3.小澤の抜群の記憶力
私はオペラについて殆ど知らない,勉強を怠っているといった方がよい。オペラの発音は日本語でも素人には聞き取りにくく,当然イタリア語でもドイツ語でも私にはちんぷんかんぷんだ。それがステージの両脇に,デジタルで瞬時に表示される。これなら私にでも内容がわかった。でも,正直な話,ステージ・オケピット・字幕と集中できなくてやっかいであった。
演奏が始まって1,000円で買ったプログラムに目をやると見えない。最近妙に近いものが見えにくい。以前から近視で遠くが裸眼では見えにくかったが,近頃はさらに近いものが見にくくなってきた。巷では年のせいだ,といっているらしい。ふと気が付くと客席の照明が非常口も含めて全部消えているではないか。カーテンが開くまではオケピットの明かりが少し漏れる程度で客席は殆ど真っ暗である。見えないのは私だけではない,安心した。
小澤の記憶力。シンフォニーなどを暗譜で指揮するのは大指揮者にとって珍しいことではない。しかし,小澤の場合,本番でやる曲は全て暗譜ときく。当然フィガロも全て暗譜である。休憩を含めて4時間のオペラを暗譜で,しかもオケから歌手・合唱に至る全ての演奏者に対して的確に細かい指示を出している様を見せつけられると,流石に驚きを禁じ得ない。5分の曲でも暗譜できない私とでは・・・・。
そして,第4幕になって気が付いたのであるが,このオペラはモーツアルトではないのだ。小澤のモーツアルトなのだ。小澤がモーツアルトの作品を借りて,小澤の音楽をしている。これは小澤にとって心外だろうが,私にはそう見えた。モーツアルトのジョークも音楽も小澤の手によって,小澤のモーツアルトにはっきりと変容している。改めて小澤のカリスマ的技術と音楽を見せつけられ,今更ながらに自分の力のなさを悟らされた。
比べること自体がナンセンスで,失礼極まることと知ってはいるのだが・・・。
でも,私にだってやれることもある,やらなければならないこともある。そう,このウインドオーケストラもその一つだ,どう転んでも小澤に振ってもらうことはできない。今回の春日井市民会館での定期演奏会は22回を数えるに至った。そしてあこがれの芸文コンサートホールでの名古屋公演も目前に迫った。ほんの少し小澤のパワーを頂いた。元気が出てきた。精一杯やろう,さあ,頑張るぞ。
桐田正章
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